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落语

橙山网(www.csnd.net)2015-03-10

[摘要] 落语是日本的传统曲艺形式之一。无论是表演形式还是内容,落语都与中国的传统单口相声相似。据说,落语的不少段子和中国渊源甚深,有的直接取自中国明末作家冯梦龙所编的《笑

落语是日本的传统曲艺形式之一。无论是表演形式还是内容,落语都与中国的传统单口相声相似。据说,落语的不少段子和中国渊源甚深,有的直接取自中国明末作家冯梦龙所编的《笑府》。...

落语是日本的传统曲艺形式之一。无论是表演形式还是内容,落语都与中国的传统单口相声相似。据说,落语的不少段子和中国渊源甚深,有的直接取自中国明末作家冯梦龙所编的《笑府》。

落语是日本的传统曲艺形式之一。落语起源于300多年前的江户时期,无论是表演形式还是内容,落语都与中国的传统单口相声相似。据说,落语的不少段子和中国渊源甚深,有的直接取自中国明末作家冯梦龙所编的《笑府》。后来又受到《宫廷野史》和《聊斋志异》等文学作品的影响,经过不断发展,才变成落语今天的这个样子。

落语表演的内容大都是老百姓日常生活里家长里短的小故事,如果能经常听听落语,对日本的风俗民情也就能了解得差不多了。日本的落语都是通过师傅带徒弟的方式口口相传的,通常学落语的人要经过十年的苦学才能成长为落语师,学徒出师以后,再和演出公司签约,然后,就要靠演出来维持生计了。最初级的表演者表演一段15分钟落语的收入大概是450日元(税后)。虽然“落语”和“漫才”是搞笑艺人的本业,但是它们主要是在剧场表演,观众有限,票价定得也不高,所以收入不会太多。这种娱乐形式在日本的“发扬光大”,并能赚到盆满钵满,主要还是仰仗了电视的发展。

落语这种搞笑形式,作为中国人可能不大能理解。落语中不停的抱怨,大声吼叫之类的表演形式不在少数,似乎只是在发泄情绪。不过日本是个高压社会,这样的表落语

每年的7月夏日,一年一度的“大银座落语祭”(类似我们的相声节)在日本最繁华的银座街头举行。喜爱落语的日本人摇着轻巧团扇,聚在一起享受快乐。经典段子有《荞麦面》《动物园》、《秋刀鱼还是目黑的好》等等。

大众表演类协会中历史最悠久的大型组织“落语艺术协会”成立75年周年的纪念作品《落语天女》2006年1月6日开始播放,还被改编为动画片。此外,长濑智也和冈田准一演的日剧《虎与龙》中也有落语的展示。

不管是表演方式还是表演内容,落语都与中国的单口相声相似,“大银座落语祭”实际就是相声节。日语的“落”是指抖包袱,落语最精彩之处就在于段子最后的“落”。表演者身着传统和服,手持折扇,跪坐于蒲团之上,依靠幽默诙谐的笑话和惟妙惟肖的表演制造笑料。日本关根默庵所著的《江户之落语》曾这样描述落语的魅力:“一碗白汤,一柄折扇,三寸舌根轻动,则种种世态人情,入耳触目,感兴觉快,落语之力诚可与浴后的茗香熏烟等也。”

落语发展到今日,可分为滑稽说、人情说、戏剧说和怪谈说4类。滑稽说是通过表演小笑话,最后抖出包袱逗观众发笑,狭义的落语指的就是滑稽说。人情说则反映一些世间的人情冷暖,有时令人苦笑,有时令人落泪。戏剧说来自于歌舞伎等其他传统艺术,又说又唱,有时还会使用大一些的道具。怪谈说场内昏暗,表演者有时会模拟鬼怪,讽刺人世间的丑恶。落语的种类虽然不少,但是日本落语界一直有着“修炼500段”的说法,就是说,落语只有500个左右的经典段子,多年以来反复上演。现代段子虽然经常出现,但很少有能作为经典保留下来的。

日本落语来源于中国。日本著名落语家三游亭元乐在《读论语之论语说》中明确阐述:中国早在汉代就有类似现在的单口相声的表演方式,江户时代的段子大多来自一本从中国传入的名为《笑府》(可能是日文译本的名称)的笑话集,后来又陆续受到《宫廷野史》和《聊斋志异》等文学作品的影响,落语艺术不断繁荣。

在接受记者采访时,林家一平介绍,日本落语最初只是说笑话,以后逐渐有人在路旁设肆卖艺,转而定期登台,于是表演者不只一个人,故事也越来越冗长。1744年,落语祖师露野五郎兵卫在京都首先表演“街头杂话”,开启了日本落语的先河。50年后,落语艺术移师江户(现在的东京)。1798年,东京的寺院里出现了第一家专门表演落语的场所———“寄席”,落语家三笑亭歌乐开始在“寄席”把落语介绍给普通民众。周作人先生在日期间所住的本乡西片町街尽头的铃木亭正是“寄席”。他曾见柳家小官升高座,俨然如村塾师,徐徐陈说,如讲《论语》,听者则忍俊不禁。落语艺术在19世纪迎来了两次繁荣期,最繁荣时曾出现了172家“寄席”。

进入20世纪,落语依然是日本人喜爱的大众艺术,然而60年代,被落语家们称为“最大的敌人”的电影出现,落语开始走向衰落。一平的父亲林家三平借鉴中国的单口相声,使用通俗易懂的现代日语改变了落语的表现形式,“寄席”又迎来了短暂的繁荣。进入21世纪,随着各种形式的新娱乐形式不断出现,落语再次走向衰退,许多落语家甚至放弃祖业,改投别行。

除了落语,笑的艺术形式还有漫才(类似对口相声)和做笑(类似小品)。现在只有做笑依然火暴,落语只有在日本广播协会(NHK)深夜的串场节目中才会出现。去年,由长濑智也和冈田准一共同主演的《虎与龙》开始播出,这是一部反映当代落语家的电视剧。两人每集都要表演一段落语,一时间,落语重新流行起来。林家表示,今年光顾“大银座落语祭”的年轻人就比去年多了,落语家还需要继续用笑声争取更多的观众。

落语表演片断一

在“岩松看日本”中有一段落语的表演描述:

同期:白岩松00:53:34:00

你看我背后就位于大阪的一个相声表演的这种场所,规模不算很大,但是叫相声,那是咱中国人的说法,在日本应该这种形式叫落语或漫才,落语是单口象声,漫才是两个人来进行表演的。今天我们就会听到一段单口的。

同期:落语师桂三若

甲:“昨天傍晚,西边的米铺里进了贼。听说了吗?”

00:06:28

乙:“等等!西边没有米铺啊!”

甲:“啊?是吗?啊,对对对。是东边的。”

乙:“东边也没有啊!”

甲:“那就是南面的。”

乙:“没有!”

甲:“北边。”

乙:“都说过啦!没有!”

甲:“(自言自语:难道这里的贼都不吃米吗?)都没有吗?

解说:在表演形式和内容上,落语确实和咱们的单口相声很相像。落语表演的场地并不大,在剧场前方的小舞台上摆着一个小软垫子,落语师就跪坐在上面表演。虽说落语师表演时都会穿上非常正式的和服,可他们说的却都是地地道道的民间大白话。如果说和中国单口相声有什么不同的话,落语可能更像独角戏或者是单人小品,因为落语除了嘴皮子的功夫,更注重用滑稽的表情和夸张的动作来表现生活,为了让演出更出彩儿,许多落语师还会再拿出折扇和手帕来当道具。

落语师:林家花丸

落语表演片段二

解说:落语表演的内容大都是老百姓日常生活里家长里短的小故事,如果能经常听听落语,对日本的风俗民情也就能了解得差不多了。日本的落语都是通过师傅带徒弟的方式口口相传的,通常学落语的人要经过十年的苦学才能成长为落语师,学徒出师以后,再和演出公司签约,然后,就要靠演出来维持生计了。

同期:白岩松:这是不是一个挣钱很多的职业?

00:58:06:00

红衣日本人:基本上最初级的表演者说一段15分钟的落语的话,收入是500日元,如果扣除税的话,是450日元。如果踏踏实实地干,还是基本能维持生活的。而且现在我是独身,就我来说,靠这些收入,基本能满足一个人的生活。

解说:落语起源于300多年前的江户时期。据日本落语家介绍,当时的段子大多来自一本从中国传入的名为《笑府》的笑话集, 后来经过不断发展,落语才演变成为现在这个样子。

同期:蓝衣落语师表演片段

解说:刚刚看到的落语表演是属于比较传统的落语演出方式,然而,随着落语进入到21世纪,面对众多现代传播方式,尤其是电视对的冲击,传统的落语演出方式招架不住,渐渐衰败了下去,为了让落语继续发展下去,许多落语师开始尝试着对落语进行各种改良。

解说:为了确保让每一批观众都能听到他们喜欢的段子,落语师们一般在演出的开头才会根据到场观众的情况临时决定说什么段子,在演出过程中,也会根据观众的情绪反映随时调整自己的表达方式。另外,过去的落语表演是不用麦克风的,现在,为了让观众听得更清楚,落语表演也用上了麦克风。为了推进落语的发展,还有一批落语师直接走上了电视进行表演。这位落语师 桂 三若 就经常在电视上演出,现在已经是日本落语界的一个小电视明星了。

01:17:36:00

白岩松:落语在大阪的这200多人,包括在东京的600多人的表演者,在这个行当里头是否很安心?他们会不会一方面在这里演出,一方面去上电视,去拍戏?或者去利用自己通过落语获得的知名度,去干一些其它的挣钱的事情?

剪01:18:16:00

近几大学 客座讲师 落语研究专家 古川绫子:越是有名的表演者,参与的电视节目越多,不过基本没有同时从事其它工作的现象。如果有的话,也是一些年轻表演者。一般经过了十年学习之后开始表演的艺术家们,是不会同时从事其它工作的。

解说:然而许多更为传统的落语师还是觉得落语并不适合在电视上演出。

01:25:06:00

白岩松:从你现在的演出的角度来说,是喜欢在这样一个小环境当中来演出呢?还是喜欢到一个更大的场面,或者说是到电视上去给人讲?

01:25:20:00

落语师 林家花丸:我认为还是与观众离得近一些好。01:25:33:00

可以顺便观察观众的反应,通过观众们的表情和发笑的程度来调整当天的表演。所以我认为,与在离观众很远的地方表演,甚至是上电视,在对面没有观众的情况下表演相比,还是在小房间表演效果好。

解说:尽管许多落语师认为源于剧场的落语最后还应该回归到剧场,但是在21世纪的今天,电视对落语文化传播的影响力还是不容忽视的。

同期:00:56:45:00

落语师 桂三若:在前一阵,日本的一个叫“TOKIO”的很受欢迎的偶像组合,主演了一部以“落语”为题材的电视剧,受到了很大的欢迎。从那之后,先是在东京兴起了落语热,之后影响到大阪,人们开始觉得说落语也是一件很时尚的事情。

00:57:02:00

从那以后,人们逐渐意识到原来日本的传统文化也是相当不错的。

解说:我们还了解到,2005年,日本还制作了一部以落语为题材的动画片《落语天女》,动画片播出之后,受到了不少日本少年儿童的喜爱,许多小朋友们也因为这部动画片对落语渐渐有了了解。

另外,日本有关政府部门也对落语发展做了许多工作。您能猜出这一场落语表演的票价是多少吗?

同期:01:08:37:00

白岩松:剪演出的票价是折合人民币25块钱。这在日本这个高物价的国家里头,这是一个惊人的低物价,而且老人和孩子还可以更优惠。那之所以能这么便宜,恐怕跟另外的一个因素有关,你看在我的身后像是一个博物馆一样的这种场所,所有跟漫才和跟落语有关的这种史实的资料,和历史发展的这种进程都被收录其中。而且这个演出的场所和这样的一个展览,都是由大阪市政府来资建立的,它才可以拥有一个便宜的票价。

解说:在这个资料馆里,人们可以免费查阅各种落语的影像资料。为了吸引更多年轻人的目光,许多落语师的形象还被制作成了卡通玩具形象。

01:12:57:00

近几大学 客座讲师 落语研究专家 古川绫子:在50年前,在大阪从事落语表演的人大概只有20人左右,而现在已经增加到200多人,所以可以说现在比50年前还要兴盛吧!

01:22:19:00

白岩松:在语言落下的时候,现场要有效果,这就是“落语”这两个字的由来,有点像中国相声里的“包袱”,你看刚才的这个现场的效果还是不错的,散场了。今天是周末的原因,来的人还算比较多。但是对于落语这个有着300多年发展历史的传统艺术形式来说,今天人即使再多,跟它辉煌的时候相比,恐怕也没法比。

01:22:44:00

白岩松:显然,落语和漫才以及歌舞伎,还有能剧等等一样,都要在急剧变化的时代里头,寻找它继续的生存空间。

「落语(らくご)」は「寄席」「笑点」などの语とともによく知られており、世代によっては、落语と共に人生・青春を歩んだなどと言い切ってしまう人もいるほどの人気がある。讲谈・漫才・浪曲(浪花节)などと共に「演芸」の1つとして、伝统的な话芸として扱われているが、これらの话芸の中でも特に落语は不动の人気を夸り、カラーテレビ时代から45年余り続いている落语番组「笑点」は、歴代3位の长寿番组だという。笑いの芸能として娯楽の王道を歩んできた落语を本项で纽解いてゆくが、落语爱好者でも読める内容になるよう掘り下げて进めてみたい。

まず「落语」という语の成立であるが、成立当初、本来は落语家が行う演目(ネタ)のうち滑稽物を中心として落ち(サゲ)を持つものを「落し咄(おとしばなし)」と呼び、それ以外は「话・噺・咄(はなし)」などと呼ばれていた。落语の表记は、江戸时代の18世纪後半に刊行された「新作落语徳治伝」で初见され、落语(らくご)と呼ばれるようになるのは明治期以降のことである。必ず落ちがあることから落し咄と名が付き、落语に転化したというが、落语演目には落ちのない人情噺・芝居噺などもあり、现在は全ての演目の総称となっている。ちなみに演者は「落语家」とも「噺家」とも呼ばれており、落语が幅広く浸透していた江戸时代当时の名称の名残が见られる。

落语家(噺家)は、各々の落语家のテーマソングである「出囃子(でばやし)」という三味线・太鼓などの下座音楽に乗って着物姿で舞台に登场し、「高座(こうざ)」と呼ばれる落语舞台の、真中の座布団に座って话を始める。座ったまま、基本的には身振り(仕草)と语り(言叶)の技巧のみで、様々な登场人物(子供・町人・武士など)を演じ分けるシンプルな芸で、衣装・道具・音曲を极力用いずに披露する素の芸であり、それゆえに観众を魅了する高度な技芸を要すると言われている。同じく笑いを主眼とし、演者が聴众に语りかける形式の「漫谈」との违いは、登场人物同士の対话を中心として话が进行する点にある。通常「枕(前振りとして语られる小话)」の次に「地」と呼ばれる场面设定や心理・状况描写などを说明する部分が入り、続いて本筋として大半を占める対话部分で话が构成される。少し解かりづらいので、落语の话の构成要素について少し触れておくことにする。

「枕(マクラ)」とは、导入部で语られる世间噺・时事问题や、本题と接点のある面白い小话のことで、当时の风习・言叶を予备知识として事前に说明するなどして本筋を解かり易くしたり、落ちへの伏线をはるなど演者侧が话を进め易くする効果がある。この小话で笑わせてリラックスさせ、话に惹きつけるなどの効果もあり、演目や噺家によっては一定の様式の枕もあるため、通になると枕で本题が分かるという。绝対に语らねばならないものではないので、いきなり本题に入る噺家もいるし、古くから有名な「まくら噺」というものもあり、この部分だけで一席分の语りになるものもある。

「地」とは、场面设定・心理描写・状况描写などを必要最小限で说明する部分のことであり、登场人物の会话でない部分のこと。会话调の対话部分の语りより地の部分が多く、讲谈に近い语り口调の地で话が展开してゆくものを特に「地噺」と呼ぶ。「人情噺」などに多い。

「擽り(クスグリ)」とは、本来の话の筋にある笑いではなく、演者によって入れ込まれる笑いのことで、地口(駄洒落)・内轮ネタなどで観客の笑いを取ること。特に歌舞伎や古典落语などの伝统芸能では时折见られるものであるが、挿入する场合には、一般的に话の筋から大きく外れないものが好まれる。

「落ち(サゲ)」とは、落语の缔めくくりの一言であり、落し噺で特に重要なもの。よく考えないと理解できない落ち・発音が似ている地口(駄洒落)の落ちなど多様な种类があるが、いずれもこの常套句による笑いで结びとなる。「考え―」「逆さ―」「仕草―」「地口―」「仕込み―」「途端―」「ぶっつけ―」「间抜け―」「见立て―」「にわか―」「とんとん―」「梯子―」「回り―」などに分类されるが、十分な分类法がなく、现在では従来の分类で当てはまらないものや别の分类に入れた方が良いものも出てきたという。口演时间の制约や、通じない落ちが出て来たことなどにより、最近は落ちまで披露せず终わることも多く、人情噺・芝居噺などの大半は落ちがない。

话の构成要素を挙げてみたが、次に物理的な、目に见える要素も挙げてみることにする。演出の代表的なものは小道具であるが、手拭い・扇子のみで全てを表现し、例えば、扇子はきせる・箸・笔・杯・刀・钓竿・手纸等、手拭いは本・财布・证文などに见立てられる。扇子は「かぜ」、手拭いは「まんだら」、羽织は「だるま」と、符牒(隠语)を使って呼ばれている。二つ目升进後、自分の名前入りの手拭いを作ることができ、真打升进後は、更に自分の名前入りの扇子を作ることができる。江戸落语と上方落语では小道具や惯习に违いがあり、上方落语では见台・张り扇・小拍子など、讲谈の演出と同じような小道具も用いられる。小道具以外の演出要素として衣装・照明・効果音などが挙げられるが、基本的に噺家は比较的シンプルな柄、又は无地の和服を着用して舞台に挙がり、照明や効果音は用いない。落语は素の话芸であり、観众に対しても芸に集中して贳えるよう、话以外の余计な音や物を极力避けるものであるが、地域・演目などにより最中に音曲や効果音が使用される场合がある。上方落语に用いられる下座音楽である「はめもの」がそれである。芝居噺に用いられる「书割」「ツケ」などは例外として惯习的に使用されている。元来、江戸落语には名ビラ(演者の名を记したもの)やメクリ(名ビラを掲げる台)、出囃子も无かったが、後になって上方落语から移入され常用されるようになった。元はかなり简素な舞台构成・演出であったと思われ、现在も同じ流れを継ぎシンプルであることには変わりなく、しかし各々最小限の所作に様々な意味を持たせているので、素人目に解りづらい演出も多い。例えば二つ目升进以後は纹付羽织の着用が许されるが、一瞬で羽织を脱ぐ脱ぎ方・タイミング等にも约束事があり、枕から本题に移行する合図・次の演者(噺家)の准备が出来た合図を担ったり、羽织があれば大名や殿様、羽织が无ければ商人役であるなど何らの意味合いを有するとされる。

そもそも落语という芸の根干を成す要素は、先に述べたように言叶(口头语)と仕草(座って行われる最小限)の2つしかないので、この2つを少し掘り下げてみたい。

言叶 古典落语の场合は、大半が口伝で継承されてきた特定の口演台本があり、噺家はこれを元に稽古し口演する。先に述べたが说明的な「地」の部分と会话文で构成される本题は、主にテンポの良い会话で话を进め、最小限の地で表现できない描写(细かい心理描写など)は仕草で补われる。登场人物を全て一人で演じねばならないため、声の调子・言叶遣い・话し振りなどの工夫により演じ分けられ、これらが綯い交ぜの状态であっても聴众は不自然に感じないという。

仕草 言叶の全てに仕草が伴われるのではなく、言叶で表现しきれない部分にだけ次のような仕草が付される。

小道具を箸に见立て、何かを「食べる」动作は落语の代表的な仕草である。同様に饮む・书く・歩く・走る・着るなど人物の行动を座ったまま表现する。要所で人物の「表情」を强调したり真似たりするもの、登场人物を解り易く分けるため上位・下位の人物の会话を上手・下手への「视线」「目振り」で表すもの、また「视线」「指差し」で虚空に场所・物を演出する场合もある。いずれにしろ落语舞台で小道具や演者の有する空间に制限があり、演者の话术と、座布団上の制限された动きだけでは観众の想像力に负う部分も大きいが、それを促す临场感を有する演出が非常に重要であるといわれる。

ここで、何度か话に出てきた「江戸落语」「上方落语」の违いについて触れておこうと思うが、いずれも素人の笔者なので、一般的に言われる违いを挙げてみることにする。语の通り「江戸落语」は江戸で诞生・発展したお座敷芸を起源とし、「上方落语」は上方(京阪神)で诞生・発展した大道芸を起源とすると言われている。端的に言えば、じっくりと名人芸を闻かせる粋で静的な话芸が「江戸落语」、派手で目立つ仕草を伴って笑いを追求する动的な话芸が「上方落语」と言えるかもしれない。近年では、2007年にNHK朝の连続テレビ小说「ちりとてちん」で上方落语を采り上げたので、违いについてご存知の方も多いかもしれない。

上方落语の特徴は、上方弁(関西弁)でコッテリとして言叶数も多く、上方落语独特の「ハメモノ」という音楽が入り、赈やかで入念な演出とともに可笑しさを追求する。戸外で観众を集め、惹きつけるために小道具・鸣り物も用いられ、笑いで観众を喜ばせることを重视するサービス満点の内容で継承されてきた。観众とのスタンスも江戸落语と比べて対话中心であり、観众の反応を大切にする芸能として育まれてきた。故に江戸落语に见られるような芝居噺や人情噺などのジャンルが存在せず、寄席の雰囲気やお客様のウケなど、江戸落语とは今でも违うという。上方落语の方が演目数が多く、江戸に移入された演目も多く、起源も、时期的には上方の方が早かったという。

江戸落语の特徴は、歯切れ良い江戸弁で、无駄な言叶を省いた洗练された话芸としての面白さを追求する、軽妙洒脱な芸である。上方にはない人情噺が特徴的であるため、人情噺の感动・感铭を呼ぶ系统と、笑いを追求する系统との2つが混在しているが、上方に比べて一方通行で、観众とのスタンスは舞台の上と下ではっきりとした境界线を有する。东京落语とも呼ばれ、座布団と汤呑みのみが舞台装置であり、特に囃子が用いられるものは「音曲噺」という1つのジャンルになっている。上方から移入された演目が多いが、そのまま同じ内容・演目名・オチではなく、江戸の寄席の雰囲気に合わせて変えられたものが多い。

次に、落语という话芸の起源について触れてみたい。落语成立までの流れは明确ではなく、「话・噺・咄・囃・谈・语」のいずれも「はなし」と読まれるなど日常的に行われる动作とも密接であり、また「话芸」という语の成立自体も明治时代に入ってからのことで、どこからが芸能と呼べるものなのか难しい。これは他の话芸でも同じであるが、话芸を生业とした职掌の歴史に限定して遡ると、古くは上代の「风土记」の顷、各地の说话を口伝した语部(かたりべ)に始まり、室町时代に诞生した近侍の雑役・芸能僧である同朋众(どうぼうしゅう)を経て、戦国时代の武士役职である御伽众(おとぎしゅう)・御咄众(おはなししゅう)に及ぶ。芸能として见るならば、高座に座して巧妙な话の演出をする现在の形式は、平安时代、仏教の说教(说経)师が创造し、継承・発展させたものとされているが、今の落语の直接的な起源は、一般的に戦国时代から江戸末期、主君に近侍して话し相手となった武士役职である「御伽众(おとぎしゅう)」「御咄众(おはなししゅう)」にあると言われ、多くの戦国大名が御伽众を置き、当初は戦阵の合间の慰め役として武辺话などを面白く语るものであった。次第に领国経営など役立つ知识を有する古老・浪人などの任务となり、更に江戸中期以降の天下泰平と世には、大名の幇间のような存在になった。武家出身の御伽众の流れが讲谈师となり、町人出身の御伽众の流れが落语家になったとも言われている。その中に「顿知者」と呼ばれる人々がおり、その代表的人物としては、1628年に最古の噺本である「醒睡笑」を著した、誓愿寺の安楽庵策伝が挙げられ、彼らの滑稽话が落语の祖型であると言われている。この著书には「子ほめ」「牛ほめ」など现在でも演じられている原话も収められており、全部で千以上の小咄が収录されているという。

その後17世纪後半、ほぼ同时期に3人の人物が落语の祖として名を残している。京都では、露の五郎兵卫が四条河原・北野天満宫などで「辻谈义(辻说法)」を行い活跃し、职业落语家の祖と言われている。大坂では米沢彦八が出て人気を博し、生玉社境内を本拠地として辻噺を盛んに行い、名古屋でも公演をするなど広く知れ渡った。「軽口」「軽口噺」と呼ばれ、「仕形物真似(しかたものまね)」を得意として派手な演出で有名で、また初代の彦八が「寿限无」の原话を作ったと言われ、大阪落语の祖と呼ばれている。次の2代目・米沢彦八も名高く、落语界に名を残している。同时期に大坂出身の鹿野武左卫门が、江戸の芝居小屋や风吕屋で「座敷仕方咄(ざしきしかたばなし)」を始め、身振り・手振り・表情を交えて口演する现在の落语の祖形を作ったことから、江戸落语の祖とも呼ばれている。

更に18世纪後半、狂诗・狂文が盛んとなり、上方では雑俳・仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始め、白鲤馆卯云という狂歌师が江戸に伝えて江戸小咄が诞生、「小咄」「落とし咄」と呼ばれる时代である。上方で1770年代、江戸で1786年に乌亭焉马(うていえんば)らにより「咄の会」が始められ、初代三笑亭可楽・初代三游亭円生が登场する基盘を筑いた。1798年、冈本万作と初代三笑亭可楽が江戸で各々の寄席を开いた後に寄席の数が急増し、天保の改革によって一时は寄席の数が120轩から15轩に衰微するも、直ぐに再兴し、落语の兴隆期を迎える。そんな中、幕末~明治期に活跃した「三游亭圆朝(さんゆうていえんちょう)」は「芝居噺」で大人気を博し、歴史的名人として现在でも知られ、中兴の祖とも呼ばれている。圆朝は时代に即した落语を口演し、自作自演の「怪谈噺」や、取材に基いた「実录人情噺」など独自の题材を创出し、落语の新たな道を开拓した。この顷、日本语速记术が诞生し、圆朝の高座の速记本は当时の文学や新闻で大人気となり、特に文芸における言文一致の台头を促すなど大きな影响を与えたという。1917年、柳派・三游派が合并し、「东京寄席演芸株式会社」「三游柳连睦会(睦会)」を设立し、更に1923年には「睦会」と「会社」が合并し「东京落语协会(现・落语协会)」を设立した。大学サークルの落语研究会である「落研(おちけん)」が东京大学・早稲田大学などで诞生するのは昭和20年代の顷のことである。

こうして落语の歴史を振り返ると、创始から何百年もの间、男性だけの専売特许职であり、女性の参入が皆无であった。日本の伝统芸能では、同じように男性によって培われてきたものが多いのだが、20年位前から、女性落语入门者も见られるようになり、现在では东京・大阪で10名余りの女性落语家が活跃しているというから喜ばしい限りである。

寄席や演芸场(ホールともいう)の兴行で演じるプロの落语家(职业的噺家)として名が挙がる人は大势おり、现在、プロの落语家は东西合わせ600人以上いるのだが、落语家プロ第1号は、现・JR上野駅近辺で寄席兴行を行った三笑亭可楽とされている。昭和初期に诞生した「东京落语协会(现・落语协会)」から组织が分化しており、落语协会(三游亭円歌会长)、落语芸术协会(桂歌丸会长)、立川流、三游亭円楽一门、上方落语协会(桂三枝会长)と所属组织が几つも并立しているのが现状である。またプロでも兴行収入の歩合(割)だけでは生计が成り立たず、旦那・お旦などスポンサーからの小遣い、妻の赁労働収入、座敷(酒席)での余兴収入などにも頼る状态であり、副业・内职・アルバイトなど収入源・额に相场は无く、个々により様々のようである。

さて、前述の歴史の项にもいくつか名が挙がっているが、落语の种类について最後に触れることにしたい。

「古典落语」 江戸~明治期顷までに原型が成立し、戦前までに演出が确立した演目のこと。更に以下のように分类される。

「落とし噺」

面白可笑しい滑稽噺を中心とし、噺の最後に洒落や语吕合わせなどの落ちで面白く终わるもの。「牛ほめ」「馒头こわい」「代り目」など。

「人情噺」 登场人物の心理、世情、人情の机微ををリアルに描くことを目的とし、亲子爱・夫妇の情爱・师弟爱・男女悲恋などの情爱を描いたもので、涙を诱う场面はあっても落ちはなく、笑いが主体ではない类。多くは长编作品で続きものとなり、かつては主任(トリ)の噺家が10日间兴行で连続して口演したそうだが、区切りのいい一部を取り出して现在は演じられている。「芝浜」「文七元结」「子别れ」など。

「怪谈噺」 简単に言えば幽霊やお化けが出てくる类で、主に夏に演じられ、幽霊の面や鸣り物などの演出をすることもある。「真景累ヶ渊」「牡丹灯笼」等が有名で、人情噺同様、长编なので数日挂けて口演される。途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている场合が多い。

「芝居噺」 芝居(歌舞伎)と同様に书割・音曲を用い、演者が立って见得を切ったりするもの。芝居を题材にし、役者の声色などを真似したり、パロディにしたりする类で、全体として「落とし噺」と同じ构成で、要所に芝居风の台词廻しが混じる。

「廓噺」 游郭の游女と男たちが缲り広げる悲喜剧を取り扱った一连の噺。上方では「茶屋噺」と呼ばれている。「明乌」「居残り佐平次」「品川心中」など。

「音曲噺」 芝居噺に含められるが、大げさな所作は用いず、音曲を利用して话が展开されるもの。上方落语では噺の途中に「はめもの」という下座音楽が用いられるので、音曲噺という演目を立てるのは江戸落语に限られる。

「新作落语」 世情に机敏に応じた时事的作品、风刺性の浓い作品が多い。多くの演者によって演じられる(桂米朝作「一文笛」など)作品も少なくないが、作者・初演者のみのネタとして扱われ、斯界全体の共通财产と呼べぬものが多い。

「前座噺」 単纯で短く、基础的技术を养うのに适した演目で、前座が最初に习い覚えたり、前座が口惯らし・口捌きに口演するもの。二つ目・真打が口演することもあるが、比较的简単な軽い话とみなされ、通常トリの演目として披露されることはない。しかし上方では前座噺として长编の「旅ネタ」を行うことが多く、どこで区切っても别の演者が続けられるようにできているためだとされる。

「大ネタ」 大作や人情噺などの中で特に难易度の高い作品の俗称。「らくだ」「地狱八景亡者戯」など。

落语は亲しみやすい大众芸能として大人気を博したとは言え、现代「笑い」の芸能と言えば「漫才」の方が身近であり、若者世代には亲しみやすい感がある。一昔前からは想像もつかないほど、テレビの娯楽番组が増えたように思う。「バラエティ番组」と言えば、谁かしら漫才师が司会・ゲストなどで出演している一方、落语家はバラエティ番组であまり见かけないし、やはり漫才师よりは格のようなものを感じるし、新作落语で若手が口演していたとしても、伝统の継承を感じる。「笑い」を楽しむ大众侧の视点ではなく、「笑い」を提供する演者侧に目を向けると、伝统的所作・日本语の构成の美しさや面白さ、言叶の繊细さなど、消化して表现することの难しさを再认识させられるのではないだろうか。

笔者には噺家になろうと勧诱する意図は毛头ないが、母国语や母国の文化を理解する别の方法として、落语をじっくり聴いてみるのも乙なものではないだろうか。

周作人描述的落语

其实日本也有单口相声,早先周作人《日本的落语》里就介绍过。他开头引黄遵宪的《日本国志·礼俗志三》:

“演述古今事,藉口以糊口,谓之演史家,落语家。手必弄扇子,忽笑忽泣,或歌或醉,张手流目,跨膝扭腰,为女子样,学伧荒语,假声写形,虚怪作势,于人情世态靡不曲尽,其歇语必使人捧腹绝倒,故曰落语。”

周作人在《日本的落语》中引了黄遵宪的话,后面又订正了黄的说法。他说,“日本演史今称‘讲谈’,落语则是中国的说笑话。”又说,“我觉得奇怪的,中国何以没有这一种东西。我们只知道正经的说书,打诨的相声,说笑话并不是没有,却只是个人间的消遣,杂耍场中不闻有此一项卖艺的。……中国文学美术中滑稽的分子似乎太是缺乏。”可见周作人对相声的认识还是“打诨”,虽然他的同乡绍兴人朱绍文早就在北京天桥说相声了,据说还经常讽刺清朝当局——相声当然以讽刺为骨,他却不欣赏或者不熟悉。

[责任编辑:kemi]
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